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うちなー移民トーク第2弾 お話⑤ ~神奈川で息づく沖縄と南米~

10月23日に開催した移民トークのゲストのストーリーを紹介していきます!

第5話。~神奈川で息づく沖縄と南米~

今回のゲストは、関東学院大学講師の藤浪さんです。

日本本土における沖縄コミュニティを紹介していただきました!

藤浪さん

 

現在、日本全国には33か所の沖縄県人会が存在します。

県人会の他にも、大阪環状線の大正駅の周辺は沖縄料理のお店が数多く存在することや駅のメロディーが「てぃんさぐぬ花」となっていること、神奈川県の川崎駅前には石敢當が存在することなど、日本各地に沖縄と強い結びつきを持っている地域があることが紹介されました。

県人会紹介では、横浜・鶴見沖縄県人会を紹介していただきました。

横浜市鶴見区の街中には多くの沖縄料理店が立ち並んでおり、県人会の集まりなどにも利用され、地元の沖縄コミュニティから愛されているそうです。夏には通りを封鎖してエイサーを踊る催しが開催され、毎年沖縄コミュニティの方々をはじめ県内外から多くの参加者が訪れるそうです。また、地域の小学校でも”沖縄”を大きなテーマにしており、約30年に渡ってエイサーが踊られています。

鶴見沖縄県人会は1927年に沖縄出身者によって設立された同郷団体で、90年以上歴史を持つ「沖縄角力(相撲)大会」が行われていることで知られています。「沖縄角力」は日本本土では鶴見でしか観戦することはできない貴重なものとなっています。その他、毎年開催されている出身地域対抗の県人会運動会や、沖縄の音楽や芸能、お笑い等を観覧するイベントの開催など、活発な県人会活動が行われています。

帰還者の集住地としての鶴見

鶴見沖縄県人会の特徴はもう一つあります。鶴見区には沖縄ルーツの方だけでなく南米ルーツの方も多く住んでいるそうです。1980年代から1990年代にかけて南米に渡った方やその子供が出稼ぎ労働者として日本に帰還し、その集住地が愛知県や群馬県といった地域に形成されました。その一つが鶴見区なのだそうです。そういった背景から沖縄ルーツの人々と南米ルーツの人々が多く暮らしており、「沖縄と南米の融合」「多文化共生」をテーマに、南米の楽器の演奏なども取り入れた「ウチナー祭」などの催しを行っているのだそうです。

なぜ鶴見区は多様なルートをたどってきた沖縄ルーツの人々が集うようになったのか・・・

後半部分では、鶴見区には他国や他地域を経由せずに直接移住してきた人と、沖縄から南米を経由して鶴見区に移住してきた人の双方が生活しています。なぜそのような経緯をたどったのか、そしてこれまでどのように沖縄の文化を守ってきたのかを紹介していただきました。

なぜ鶴見区に沖縄ルーツの人が集中?

沖縄から南米を経由せずに鶴見区に集まり始めたのは1920~40年代前半の事で、その理由の多くは出稼ぎでした。当時、鶴見区は京浜工業地帯としての整備が進められ、日雇い供給業の需要が鶴見区で大きくなったことが鶴見区に移住者が集中した要因の一つであるとされています。鶴見区に集まった沖縄県出身者は、相互に助け合い、後に起業する沖縄出身者も出てきました。

1980年代になるとバブル景気になり、不動産取引が活発化しました。それに伴い沖縄ルーツの建設業者は人手の不足に困ってしまいます。そこで鶴見の沖縄出身建設業者は南米に暮らす親戚や知人に助けを求めます。

南米に移住した沖縄出身者たちは農業コミュニティとして発展していきましたが、ボリビアの農業コミュニティでは長男以外が農地を継げないということで次男、三男らが職からあぶれてしまうとう問題があり、そこで鶴見の人手不足とニーズが一致しました。ボリビアの農業コミュニティのような悩みは他の南米における沖縄コミュニティでも起きていました。鶴見で労働力を集めている情報は南米各地に広く伝わり、鶴見区に多くの南米の人たちが集まるようになりました。その後、南米から来た人たちは、自分たちで建設業の会社を立ち上げました。

かつては昔から鶴見区に暮らすウチナーンチュしか参加していなかった県人会活動に、近年になって南米からの人々も参加するようになりました。また、鶴見沖縄県人会は若者が多く、今後もより活発で強固な取り組みが期待されているそうです。

~参加者からのコメント~

・鶴見に住んでいたことがありますが、どうして鶴見にいたのかあまり考えたことがなかったので、とても勉強になりました

・私は東京在住ですが、今後、鶴見沖縄県人会の方々と何らかの形で繋がりたいと思います

・鶴見区の取り組みに感銘を受けました

 

 

次回はいよいよ最後の記事!

最終記事では「民謡の中の沖縄移民」をお送りします!

お楽しみにーーー!!